生善院本堂
建物データ
指定名称 | 生善院本堂 享保8年(1723)頃、祈祷札 桁行16.347m、梁間5.030m、一重、入母屋造、茅葺に鉄板葺被せ、南面向拝一間、桟瓦葺、北面・西面・南面下屋附属、桟瓦葺、南向 |
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指定年月日 | 平成24年10月1日 |
所在地 | 水上村大字岩野 |
修理記録 | |
保存修理工事報告書 | 『生善院本堂・客殿・庫裏・山門調査報告書』(球磨文化遺産保存会、平成28年3月) |
生善院本堂正側面
『麻郡神社記』によると寛永2年(1625)に20代相良長毎(ながつね)により普門寺址に生善院が創建されました。寛永2年に生善院に建立された仏堂は、阿弥陀堂と観音堂で、鎮守として生龍権現も同時期に建立されました。現在、生善院には観音堂(重要文化財)、本堂、客殿、庫裏、山門が現存しており、近くの民家には正龍権現の部材が住宅に転用されていましたが解体されました。
『仏殿調物控』によると現本堂は、もと「持仏堂ノ間」と「次之間」からなる「客殿」で、建立された享保8年(1723)頃は、生善院が創建されてほぼ100年の節目の頃です。
「持仏堂」の「玄関」(向拝)に古い部材が転用されていることから、「客殿」の「持仏堂ノ間」は、阿弥陀堂として建て替えた部分で、「次之間」は藩主の市房参詣が百人程度の規模であったことを考慮すると、家臣の休憩及び宿泊所と推測されます。
その後、客殿北西に藩主の休憩所として「茶道之間」が増築され、それまでの休憩所及び宿泊所であったとみられる「書院」は使われなくなったようです。
生善院本堂向拝(玄関)
建立当初は仏壇を向拝から拝むようになっていましたが、明治以降に本堂に改修され「次之間」(外陣)から本尊を拝むように仏壇と位牌壇の位置が入れ替えられましたので、現在は位牌壇が正面になっています。
生善院本堂正面
『仏殿調物控』には現存する建物以外に多数建物が記載されています。西端間(写真左側)柱外側には渡廊下とみられる痕跡が残っています。
生善院本堂東側面・背面
東側面南端間柱外側には渡廊下とみられる痕跡が在り、間仕切装置は片袖壁と見られます。その北側の間には引き違い戸が入っていた痕跡が在り、「持仏堂之間」(内陣)の明り取りとしていたようです。『仏殿調物控』の記載されている建具は半戸2枚、半障子1枚ですので、高さが3尺程の板戸と明障子であったとみられます。
生善院本堂・客殿(茶道之間)西側面
出桁が継がれていて舟肘木がある範囲が本堂で、玄関が取り付いている方が客殿部分です。
生善院本堂内陣(持仏堂之間)
外陣(次之間)から見た内陣(持仏堂の間)で、正面は仏壇で一段高くなっています。位牌壇には生善院以外の仏像が移され安置されています。外陣との開口を広くするために、柱が1本内法間で切断されています。
生善院本堂外陣
24畳敷の広さで、内陣との間仕切で北端間は漆喰壁となっていますが、建立当初は三間とも杉戸の引違いでした。北面四間、西端一間内側も杉戸の引違いで、南面一間内側四間は腰障子引違い、廊下は南側端間から西端間へL字型に繋がっていました。廊下内側の入側柱の外部側はかなり風蝕していますので、建立当初は開放であったとみられます。
生善院本堂南端廊下
現在内陣と廊下の間仕切は柱2本を切断して指鴨居を入れて倹飩式の格子戸としていますが、建立当初は三間とも格子戸の引違いでした。
生善院本堂小屋組
扠首組ではなく和小屋に登梁形式としています。
生善院本堂と客殿接続部分
本堂の舟肘木にはあまり風蝕が見られませんので、本堂が建立されて早い時期に客殿が増築されたようです。
生善院本堂軒廻り
出桁と裏甲は水色のペンキが塗られていましたが、削り落とされています。小天井板は中古のもののようです。
生善院本堂舟肘木
舟肘木輪郭の構成は人吉市の矢黒神社本殿(正徳5年1715)と同じです。
生善院本堂向拝中備
中備は賢帝の治世に現れる除災の神獣「白澤(はくたく)」です。
生善院本堂向拝水引虹梁木鼻
木鼻の輪郭や意匠は山江村の万江阿蘇神社本殿(享保13年1728)向拝水引虹梁木鼻と同じです。斗栱は阿弥陀堂の転用材とみられます。
生善院本堂向拝手挟と海老虹梁
海老虹梁は山江村の万江阿蘇神社本殿(享保13年1728)のものより意匠的に装飾性が進んだ印象です。
生善院本堂向拝転用材
実肘木は観音堂のものと同じ意匠で、枠肘木は観音堂と異なる禅宗様形で木口に板決りがあり、下端には縦格子が残っているようです。枠肘木上の巻斗外側には板決りを埋木したようで、もとは左右逆であったとみられます。
建物情報
※情報の内容は調査・研究成果によるものです。
平面寸法 |
実測は現行尺(1尺303.03㎜)のものさしで行いました。本堂は建物の歪みが大きく柱間寸法は実測を調整する必要があり、鉄尺(1尺302.58㎜)での検討は実測斑が大きいのでここでは控えます。 桁行の規模は6.3尺×8.5+0.55尺で54.1尺、梁間の規模は6.3尺×4+0.5尺×2で26.2尺とみられます。柱断面寸法は0.55尺角と0.5尺角のものが混在していますが、畳敷き廻りは0.5尺角でした。 「持仏堂之間」(内陣)桁行は三間等間で7.2尺(6.3尺8/7)×3で21.6尺、梁間は中央間6.3尺、端間6.55尺で19.4尺のようです。「次之間」(外陣)は桁行6.3尺×4、梁間6.3尺の24畳敷で、桁行方向中央二間6.3尺、両端間は6.55尺で25.7尺、梁間方向は「持仏堂之間」(内陣)と同じ19.4尺です。廊下は6.8尺(6.3尺+0.5尺)で、南側と西側を合わせると23枚の畳を敷き込むことができます。 平面計画には板張りの「持仏堂之間」(内陣)も畳の大きさが基準となっているとみられます。 |
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