生善院観音堂

建物データ

指定名称 重要文化財生善院観音堂 1棟   寛永2年(1625)須弥壇嵌板墨書
桁行三間、梁間三間、一重、寄棟造、茅葺、向拝一間、妻入、こけら葺、須弥壇付
指定年月日 平成2年9月1日
所在地 水上村大字岩野
修理記録 平成14年(半解体修理工事)
保存修理工事報告書 平成14年9月30日

生善院とその周辺

生善院とその周辺

県道33号線から北側の参道に入り石段を登ると山門があります。山門の前には狛犬ならぬ狛猫が参詣者を迎えます。山門を入ると正面に本堂、東側に観音堂が建っています。
生善院は真言宗智山派の寺院で、通称「猫寺」と呼ばれています。この寺の創建については以下の由緒が伝わっています。
戦国時代末期、薩摩・大隅・日向を平定した島津義久は北上し、天正9年(1582)2月14日より、球磨・葦北・八代を支配する相良氏の水俣城に対し攻撃を開始した。水俣城の攻防は激戦であったが、ついに9月23日に落城し、11月に18代相良義陽は島津義久と和睦した。島津氏の庇護下に入った相良氏は、その後島津義久の北上に協力して各地で戦うこととなった。同年12月、阿蘇方の甲斐宗運と響野原で合戟となり、相良義陽は討死した。このことを知った相良義陽の弟頼貞は、球磨郡での家督を狙うため薩摩から人吉に侵入したが、島津義久が許さず頼貞は日向に追放された。そして、本能寺の変が起こった翌天正10(1583)年、この相良頼貞の謀反に湯山地頭湯山宗昌と弟盛誉(普門寺住職)が加担したとして讒言され、3月に19代相良忠房は誅伐の命令を出したが、それは噂にすぎないことが判った。そのため人吉から誅伐中止の使者を送ったが、焼酎好きの使者は途中で焼酎を飲んで酔ってしまい、目が覚めたときには盛馨は殺され寺も焼かれてしまっていた。そして、どうしてもおさまらない盛誉の母玖月善女は愛猫玉垂に怨霊となって相良氏にたたるよう言い含めて、淵に身を投げてしまった。その後、この使者が急死し相良家にもよくないことが続いたので、忠房の姉明巌妙照禅尼の願いにより慶長2年(1597)に人吉の青井阿蘇神社の西脇に慈悲権現社を建てて盛誉と玖月善女の霊所とし、次いで寛永2年(1625)に20代相良長毎により普門寺址に生善院が創建されました。

生善院観音堂正側面

生善院観音堂正側面

観音堂は建立後、宝暦3年(1753)に向拝柱の取替と正面側縁廻りの改造が行われました。この時、縁廻りは側面西端間中央から正面側の縁板・隅扠首・縁束足固貫、高欄部材を取り替え、石段を木口階段に改め、登高欄が付加されま。さらに、正面中央間の桟唐戸を取り替え、内部彩色の渦引き、須弥壇廻りと高欄の漆塗に漆を重ね塗りしました。その後は、幕末にもう一度向拝の修理が行われ、垂木から上の部材の取替と、屋根が桟瓦葺に改められました。
保存修理工事で建立当初の姿に復原整備されました。当初から霊廟の様に黒漆が塗られていました。漆塗りは日光東照宮のように木地に下地を付けず、直接木地に漆を塗る打付塗という技法で施工されていました。そのため、風雨により漆がなくなった箇所は木地表面が平滑ではありませんので、漆塗の印象が違って見えます。

生善院観音背側面

生善院観音背側面

礎石や縁束石は球磨川が近くに流れているせいか、柱や縁束に対してかなり大きな石が据えられています。

生善院観音堂向拝正面

生善院観音堂向拝正面

力士が斗を介して桁を背負っています。力士の両脇は輪宝の彫刻です。
※輪宝は古代インドの投擲用武器。仏教に取り入られてから仏の説法が心の煩悩を破ることの譬えに用いられ、説法を転法輪とも称するように説法の象徴とされるようになった。

生善院観音堂内部

生善院観音堂内部

内部も漆塗が施されています。保存修理工事では漆塗の状態が良かったことから、摺漆を施し表面をコーティングしました。
小壁板の馬のレリーフの彩色はホコリを除去して、膠水溶液で塗料が剥落しない処理を行いました。住職によると馬は観音様の使いであるそうです。
内部の来迎柱や来迎壁は省略されています。

琵琶板の桐彫刻彩色と小壁板の格狭間彩色

琵琶板の桐彫刻彩色と小壁板の格狭間彩色

琵琶板の桐彫刻彩色や格狭間彩色は残存していた塗料を分析して色を再現しています。格狭間彩色は写真の緑青のほか朱、臙脂の組合せでした。

蟇股内部彩色と桐唐草文様置上げ彩色

蟇股内部彩色と桐唐草文様置上げ彩色

蟇股内部彩色は牡丹唐草で笈形部が置上げ彩色です。写真は施工途中で、蟇股脇の笈形部に白い胡粉を塗り重ねて桐唐草文様をレリーフのように仕上げます。

須弥壇嵌板のレリーフ

八勝寺阿弥陀須弥壇と厨子

須弥壇正面向かって右側の嵌板で、猫は玉垂と考えられます。

建物情報

※情報の内容は修理工事報告所及びその後の調査・研究成果によるものです。

大工棟梁 田上 又兵衛
平面計画 生善院観音堂平面計画
半解体修理のため柱間の真墨を実測できたのは丸桁のみで、三間分の計画寸法と考えられる桁行、梁間とも16.80尺より実測値が短く、現行尺の0.99833~0.99888であったと報告しました。部材の収縮を考慮しなければ、当時のものさしは302.52㎜~302.69㎜であったと考えられます。
平面計画は17尺を85等分した0.2尺のグリッド上に柱が配置されています。三間分を84小間、中央間36小間7.20尺、端間24小間4.80尺、側面は等間なので一間28小間5.60尺、隅柱真から茅負留先外下角までを25小間としています。
軒廻り 江戸時代前期の建立で論止垂木がない建物でしたので、保存修理工事中にはその理由が判りませんでしたが、留先法で規矩図を見ると茅負の外側下角留先は隅柱真から水平距離で5尺に計画していることが判ります。一枝寸法は0.4尺で隅柱真を手挟んで取り付けていますので、4.8尺を12等分して配付垂木も身舎と同じ一枝寸法となります。隅柱真から隅木木負口脇まで2.06尺で、論止垂木を納める計画ではないことが判ります。
番 付 柱番付は南西隅柱を起点にした、時計回りの漢数字の回り番付であると考えられます。
須弥壇の束は背面側南東隅を起点にした時計回りの漢数字の回り番付で、厨子も正面南隅柱起点にした時計回りの漢数字の回り番付が確認されました。
東面の縁板には高欄地覆部分に北側から南側へ方位を入れた数字の番付(東七など)がありました。
縁葛・隅扠首 縁葛と隅扠首は縁板外側面に合わせて作られていますので、隅扠首先端は角になります。このような縁廻り部材の納め方は、人吉球磨地域の仏堂に見られますが、いつからこのような手法としたのかは今のところ不明です。
須弥壇・厨子 須弥壇と厨子は墨書により観音堂と同じ時期に作られたことが判っています。厨子の扉脇のレリーフは昇り龍(写真右)と降り龍(写真左)です。
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