八勝寺阿弥陀堂
建物データ
指定名称 | 重要文化財八勝寺阿弥陀堂 1棟 15世紀後期 桁行三間、梁間三間、一重、寄棟造、茅葺 |
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指定年月日 | 平成14年12月26日 |
所在地 | 湯前町字長谷場 |
修理記録 | 平成27年(解体修理工事) |
保存修理工事報告書 | 平成27年3月31日 |
平成7年頃の阿弥陀堂
阿弥陀堂の建つ敷地は、小山の斜面を掘削し、平坦地を確保するために盛土された場所で、建物の梁間方向中央部から東面(背面斜面側)と北側は地山、正面側は盛土でした。写真左側(北側)に農道が作られるまでは斜面になっていました。
修理前の八勝寺阿弥陀堂正側面
屋根は大正10年に瓦葺に変更され、昭和47年の修理でセメント瓦葺に葺き替えられました。縁は大正10年まではあったと考えられますので、その後の改修工事で撤去されたとみられます。どこまで仏堂としての体裁が復旧できるかは、古い部材がどれだけ残っているかにかかっています。建物を分解すると、改修に関わった大工さんの好判断がこの建物のを未来につなぐことになりました。
保存修理後の八勝寺阿弥陀堂正側面
保存修理工事に伴う調査により当初ではなく、厨子と須弥壇が施入された中世末から近世初の姿に復旧又は整備されました。
八勝寺阿弥陀堂内部正面
大正10年(1921)の改修工事で来迎柱を床下で切断して堂内を広く使えるようにしました。今回の保存修理工事で床上部分が復原されました。来迎柱は天井板を突き抜け小屋梁を受けています。
八勝寺阿弥陀須弥壇と厨子
須弥壇と厨子は他所から移されてもので、須弥壇に厨子を載せると厨子の棟が天井より高くなるため、厨子の屋根部分が舟底天井に改変されました。厨子は「作者賀吽」銘により元亀年間(1570)から天正年間(1592)に造られたことが判っています。厨子は解体されずに斜めに倒して建物に入れられていますので、工事前は柱部分と屋根部分がくの字に折れていました。
建物情報
※情報の内容は重要文化財の指定説明とその後の調査・研究成果によるものです。
平面計画 | 修理工事報告書は1尺の長さを現行尺(1尺303.03㎜)としていましたので、鉄尺(1尺302.58㎜)で分析し直します。三間分の実測値は5,914㎜~5,927㎜で鉄尺では19.545尺~19.588尺で等間ですので各間6.515尺~6.529尺となります。側柱断面寸法は227㎜(0.75尺)です。 実測値では平面計画の関係性が見い出せませんので、各柱間位置で部材の柱真実測値の平均値が二ヶ所で1,977㎜、一ヶ所1,976㎜の間がありましたので、各柱間寸法を1,977㎜として分析してみます。 三間分の長さは5,931㎜19.60尺、各柱間寸法は6.53333・・・尺、各柱間は12枝ですので、0.54444・・・尺となります。三間分の規模19.60尺は隅柱外々で20尺と仮定し50等分した1小間0.4尺の49小間を隅柱真々寸法とした考えられますが、各柱間との関係性がみられません。 柱間寸法を裏目に換算すると三間分13.86裏尺、各間4.62尺、一枝寸法は0.385尺となります。平面計画としては隅柱外々寸法を14裏尺と仮定し100等分し、1小間0.14裏尺の99小間13.86裏尺を隅柱真々寸法とすると、各柱間は33小間4.62尺、一枝寸法は0.385尺(1小間11/4)となります。来迎柱は背面側通りから17.5小間2.45裏尺内に入った位置に建てられています。 |
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軒廻り | どこまで当初軒廻りが解明できるか気がかりでしたが、部材が下記のとおり残されていましたので当初軒廻りの復旧が可能となりました。 1.当初丸桁4本(反り、増し無し、北西隅落掛かり2寸七分勾配程度) 2.当初隅木4本(鼻先が切られ、化粧基板より上部分が祈りとられ、化粧部分の表面が若干削られて再用されていた) 3.当初垂木105本(軒の出が判るものが6本) 4.当初茅負2本(長さ1m程に切断された曲線部分と直線部分) 5.当初裏甲2枚(長さ70cm弱に切断された直線部分) 6.中古茅負4本(長さ6m程のものは軒全長の半分程が残り、留先が若干切られているがほほ反りが判る。また、中央で折ったように造られている) ※当初垂木で判る軒の出は、1,339m、1,354m、1,360m、1,394m、1,403m、1,421mとなり、最大82mmの差がある。軒の出の差は、茅負の反り出し以上の差であることから、何らかの原因で隅木が真隅に入らず、施工の際にこのような差が生じたものと考えられます。 残存古材より判る軒廻りの情報は、下記のとおりです。 1.隅木落掛かり勾配、幅:2寸7分勾配、幅107mm(裏目0.25尺) 2.柱間の一枝寸法:164mm(0.542尺、1尺=302.58㎜で換算) 3.配付垂木の一枝寸法:平均175mm(0.578尺) 4.軒の出:1,339~1,421m 5.当初茅負:直線部分と曲線部分がある 6.中古茅負の反り:200mm以上(建物中央で折ったように造られている、真反り) 7.当初材は実測値を精査し裏目の寸法で仕上げられていると判断した 軒廻りの復原について 軒廻りの当初材は、茅負、布裏甲、隅木、垂木と全て揃っていましたが、茅負は長さが1m弱しかないため、肝心の茅負の反りが復原できるのかが大きな問題となりました。 平行軒であれば、茅負の反りは、隅木に残る配付垂木尻の柄穴を調査し規矩図を作成すれば、導き出すことができますが、当初丸桁に反りや増しがなく、中古茅負は建物中央で折ったように造られていることから、大正10年以前は捻れ軒であったことが判ります。それまで中古茅負は当初隅木に取り付けられていたので、当初から捻れ軒であったことは容易に想像できます。 そのため、従前の規矩術の知識では軒廻りの復原は困難と思われましたが、事業着手直前に歴史的な軒廻りの規矩術の技法を明らかにした一連の論文(注1)が発表され、新しい知識により復原の道筋がつきました。中世の軒廻りの計画方法である「留先法」(注2)と「茅負の反りの決定方法」を、軒廻りの復原の参考としました。 軒廻りの復原は論文に倣い茅負の反り(図54)を作り、留先法で軒廻りを計画した規矩図を作図して、当初隅木と比較する方法を採りました。 注 (1)大阪市立大学都市研究プラザ特別研究員 大上直樹『歴史的建造物に於ける軒規矩術に関する研究』(大阪市立大学 学位請求論文 2012年3月) (2)「留先法」は隅木真上の木負、茅負の留先から軒規矩術の計画を始める技法で、論文上で仮称です。 現寸図作図に当たり、軒廻りの復原設定を下記のとおりとしました。修理工事報告書では1尺303.6㎜として検討していますが、この時代は鉄尺(1尺302.58㎜)と考えられますので尺寸法は若干長くなっています。 1.隅木勾配・幅 北西隅の落掛かりの実測では、落掛かりの勾配が2寸7分勾配であったが、実際に当初隅木を載せると2寸5分勾配で据わりが良かったため、この勾配とした。 隅木の幅は丸桁落掛かりの実測値が109~112mmで、風蝕を考慮し107mm(裏目0.25尺)とした。 2.茅負の留先位置 6本の当初垂木の軒の出の平均値が1.379mで、当初の尺(1尺=302.58mm)では、4.56尺となり、ルート2倍すると6.45尺なので、茅負の反りによる引込み分を考慮し、留先を本中から表目6.50尺(柱間寸法と同じ、柱間枝割り12枚)に設定した。 3.茅負の反り 中古茅負下端の反りは留先の若干手前で200mなので、留先では当初茅負の成と同寸法(215m、裏目0.5尺)と想定した。 4.茅負の反りの形状 前記の論文を参考に、茅負の反りを丸桁真で外側曲線部分と内側直線部分に分け、曲線部分は円弧曲線としました。当初茅負の曲線部分は半径36.5尺で、この円弧の一部を留先から丸桁真まで1寸勾配に描き、丸桁真から建物中央まで直線を繋いで、茅負の反りの形状としました。 5.配付垂木勾配 配付垂木の勾配は、すべて隅木と同じ2寸5分勾配としました。 6.配付垂木割り 留先の設定により配付垂木は7本、丸桁脇の配付垂木まで柱間の枝割りと同じ寸法として、隅木茅負口脇と丸桁脇配付垂木真を七等分しました。 以上の設定で、規矩囲(図56)を作図しました。 軒廻りの復原検証は、作図した規矩図に、当初隅木側面を写し取った透明フイルムを重ね、納まりを比較して以下のような結論を得えました。 1.隅木は2寸5分勾配で丸桁に載り、配付垂木も同じ勾配でこの部分は平行軒と考えられます。 2.丸桁落掛かりは、隅木の配付垂木尻の柄大下の木余り部分より20mm少ないため、丸桁脇の配付垂木は尻上端が斫られ納められています(隅木八面の内一面だけ、この位置の柄穴が下げられていました)。 3.配付垂木割りは、想定した当初軒廻り計画とほぼ一致しました。 4.論文を基に作図した茅負の反りは、当初隅木とほぼ一致しました。 5.丸桁より内側の垂木は、茅負が直線となるため同じ菱曲となり、建物中央での垂木勾配は2寸9分強となります。 配付垂木は捻れ軒としても検証してみましたが、垂木尻が平行垂木の場合より下がった位置になるため、当初隅木とは合いませんでした。中古茅負は丸桁外側の反りが急であるため、当初隅木とは合いませんが、大正10年までは当初隅木の鼻先に載り、配付垂木が取り付けられていました。隅木に残る配付垂木尻の止釘は一回ですので、配付垂木は中古茅負を取り付ける際には鼻先のみ釘が打ち替えられたようです。 |
番 付 | 青蓮寺阿弥陀堂と同様に建物の当初番付は確認されませんでした。 須弥壇の束には南東隅を起点にした、時計回りの漢数字の回り番付、框や地覆などの繋ぎ材には、上框繋ぎ材を起点にした漢数字の番付が確認されました。地覆と下台輪框の南側須弥留の栓には、地覆に「南下三」、下台輪框に「南下二」の番付が確認されました。 |
縁 束 | 縁廻りは青蓮寺阿弥陀堂当初の縁廻りを参考に整備されています。縁束は側柱の7/10の太さですので、整備した縁束は側柱227㎜の7/10、159㎜(0.525尺)角とされました。 |
当初の須弥壇 | 床板には現在の須弥壇と当初須弥壇が載っていた部分の風蝕差があります。現在の須弥壇は元亀年間から天正年間に設置されたものですので、それ以前の当初須弥壇が載っていた部分はもっとも風蝕が少ないので平面規模が判りました。幅は2,167㎜(7.16尺)、前面から来迎柱真まで786㎜(2.6尺)でした。来迎柱が床下で切断されていましたので高さは判りません。当初、御本尊は直接須弥壇に載せられていたと考えられます。 |
正面の扉とその他の柱間装置 | 保存修理工事では中世末から近世初の姿に復旧又は整備されましたので、正面の扉は中央だけです。柱の加工痕により当初は正面三間とも扉があったことが判りました。しかし、扉の脇に取り付ける方立はすべて中古材で、中央間の当初材と見られていた藁座も中古材でした。内法貫に藁座が取り付いていた部分は風化していて、他に止釘穴がありませんでした。当初は藁座を用いる軸吊形式ではなく、肘壷金具による肘吊形式であったと考えられます。肘壷金物は方立に取り付けますので、金物の錆により方立が破損して取替えられたのではないかと推測されます。人吉球磨地域の一番古い肘吊形式の扉は老神神社拝殿の本殿側出入口のもので、扉の格狭間彫刻と本殿琵琶板の格狭間彫刻が同じですので寛永5年(1628)のものとみられます。 町内の熊本県指定文化財下里御大師堂の保存修理工事で、建立年代が延宝4年(1676)であることが判明しました。それまでは天正8年(1580)の建立と考えられていましたが、正面は中央間だけに建具が入り両脇間が板壁でしたので、中世に建立された仏堂は正面三間を扉として、近世になると中央間のみ扉にする平面的、意匠的な流れが確認されました。 中世末から近世初の出入口は両側面の中央間だけで、正面中央間以外は板壁でした。柱の痕跡調査や残っていた当初材により板壁は両側面の背面側一間と背面の両端間だけであったことが判りました。人が入るのは背面中央間からで、両側面正面側2間は外部板戸で内側に格子戸が入れられていたようです。正面三間は扉ですので、建具を開くとかなり明るい堂内であったようです。 |
結 界 | 江戸時代中期頃に、正面から1間入った桁行方向に結界が設けられたようです。それまでは堂内ではなく、縁からの参拝であったようです。青蓮寺阿弥陀堂も江戸時代中期に、外陣まで入って参拝できるようになりました。 |