明導寺阿弥陀堂(城泉寺・浄心寺)・九重石塔・七重石塔

建物データ

指定名称 重要文化財明導寺阿弥陀堂 1棟   寛喜元年(1229)、観音銘
桁行三間、梁間三間、一重、寄棟造、茅葺
指定年月日 昭和8年1月23日
所在地 湯前町瀬戸口区
修理記録 昭和34年(解体修理工事)、昭和56年(屋根工事)、平成21年(屋根工事)
保存修理工事報告書 昭和34年8月31日
指定名称 重要文化財明導寺九重石塔(城泉寺九重石塔) 1基   寛喜2年(1230)、初重塔身刻銘
石造九重塔> 寛喜二年庚寅九月廿三日の刻銘がある
指定年月日 昭和8年1月23日
所在地 湯前町瀬戸口区
修理記録 昭和28年(災害復旧工事)
保存修理工事報告書 未出版
指定名称 重要文化財明導寺七重石塔(城泉寺七重石塔) 1基       寛喜2年(1230)、初重塔身刻銘
石造七重塔 寛喜二年庚寅十一月日の刻銘がある
指定年月日 昭和8年1月23日
所在地 湯前町瀬戸口区
修理記録 昭和60年(解体修理工事)
保存修理工事報告書 昭和60年10月31日出版

阿弥陀堂と石塔

阿弥陀堂と石塔

境内は土塁で囲まれていたそうです。その一部が石塔の廻りに残っています。明導寺阿弥陀堂と石塔は、重要文化財指定時に近くの明導寺で管理していたため、明導寺の名称が付きますが、建立時は浄心寺という寺名でした。浄心寺は江戸時代には廃寺となっています。このような仏堂が残されてきたのが人吉球磨地域の特色です。

明導寺阿弥陀堂正面

明導寺阿弥陀堂正面

昭和34年の保存修理工事で旧規に復されました。修理前と大きく違うのは軒廻りと復旧された縁です。

明導寺阿弥陀堂正側面

明導寺阿弥陀堂正側面

縁は青蓮寺阿弥陀堂のものを参考に整備されました。

明導寺阿弥陀堂背側面

明導寺阿弥陀堂背側面

建物の規模に対して、柱がかなり太い印象を受けます。

明導寺阿弥陀堂斗栱

明導寺阿弥陀堂斗栱

斗は平安時代のものの特徴を残しています。

明導寺阿弥陀堂木鼻

明導寺阿弥陀堂木鼻

大仏様の東大寺南大門の木鼻に似た形状で覆輪を付けています。

石造九重塔と石造七重塔

石造九重塔と石造七重石塔

元は石造十三重塔もありましたが、現在は八代市に移築されています。現地にはレプリカの石造十三重塔が建てられています。

石造九重塔初重塔身刻銘

石造九重塔初重塔身刻銘

寛喜二年庚寅九月廿三日の刻銘があります。石造七重塔も同じ寛喜二年十一月ですので、石造九重の塔が最初に完成したと考えられます。

建物情報

※情報の内容は重要文化財の指定説明とその後の調査・研究成果によるものです。

石工棟梁 石造九重塔・石造七重塔:大工兼仏師幸西、小工栄華
平面計画と柱断面寸法 明導寺阿弥陀堂平面計画
修理工事報告書に記載されている各柱間の実測値では、三間分の最小値が現行尺(1尺303.03㎜)で24.2尺となります。鉄尺(1尺302.58㎜)に換算すると24.236尺です。建立当初の平面規模を検討する場合はこの数値が最小値となります。阿弥陀堂は正方形平面で、柱の太さは24.236尺/21で保存図にも直径1.15尺と表記されています。
三間分の規模を24.24尺と仮定し、保存図の寸法を鉄尺に換算すると、中央間9.12尺、端間7.56尺となります。四天柱の位置は背面側は側廻りから5.22尺、側面の間隔は7.26尺とみられます。
では、建物の規模をどのように決めたのでしょうか。24.24尺という数値ををみると0.24尺のグリッド上に柱を配置しているように推測されます。24尺を100等分して1小間は0.24尺で、101小間が三間分の規模になります。中央間を38小間(9.12尺)、端間を31.5小間(7.56尺)と計画したと考えられます。四天柱位置は背面側からの間隔は21.75小間(5.22尺)、側面の間隔は30.25小間(7.26尺)とみられます
軒廻り 昭和34年の保存修理工事でそれまで一軒であったものを二軒に復原整備されました。
番 付 修理工事報告書では報告されていません。
縁 束 縁廻りは青蓮寺阿弥陀堂を参考に整備されていますので、柱の太さに対して縁束がかなり細い印象となっています。昭和34年修理時には青蓮寺阿弥陀堂は宝暦4年(1754)改修時の姿でした。当初は0.7寸角の縁束でしたが、宝暦四年の改修工事で0.58尺角に変更されました。
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