太田家住宅

建物データ

指定名称 重要文化財太田家住宅1棟   江戸末期
十二畳(床、仏壇付)、十二畳半(押入二所付)、六畳、十二畳半、土間、縁よりなる、折曲がり寄棟造、茅葺、東面庇及び土間附属
指定年月日 昭和48年2月23日
所在地 多良木町大字多良木
修理記録 平成21年(解体修理工事)
保存修理工事報告書 平成21年8月31日出版

太田家住宅正面

太田家住宅正面

太田家は、かつて相良氏の家臣として人吉に住んでいましたが、その後当地に移り農業と酒造業を営んだと伝えられています。

太田家住宅正面

太田家住宅正面

平成21年の解体修理に伴う調査により、当初の形式とその後の変遷が概ね明らかになりました。太田家住宅は、熊本県下に分布する屋根を折り曲げた型の民家のうちで発達した形態を示す民家です。保存修理工事を機に建築当初の姿に復旧整備されました。建物はほぼ南面して建てられています。

兜釜式蒸留機

兜釜式蒸留機

発掘調査によりドウジ中央部の地下から焼土痕(幅2mX奥行1.5m)が検出され、遺構の配置や規模から焼酎蒸留用の竃であると推定されました。蒸留設備は残っていませんでしたが、当時の兜釜式蒸留機は写真のようなものです。

太田家住宅ザシキ

太田家住宅ザシキ

床の壁は土壁に和紙を張り重ね、美濃版の和紙表面に施された模様は三回に分けて摺り分けられたものたそうです。一番下地には胡粉(白色)を膠と混ぜて全面に刷毛で塗って、乾燥後に波模様と稲穂の柄を模した版木を使い波模様をギラ(雲母、半透明の白色)と膠を混ぜたもので摺り、最後に稲穂柄を岩絵の具の群青を使い同じく膠と混ぜ、版木の表面に載せ刷り上げたもののようです。

太田家住宅トウジ

太田家住宅トウジ

写真奥がトウジ(土間)で、焼酎蒸留用の大竈と生活用の竈が整備されました。

太田家住宅背面

太田家住宅背面

保存修理工事でザシキ北側の後に増築された3室が撤去されましたので、ザシキの造りがよく見えるようになりました。

建物情報

※情報の内容は重要文化財の指定説明とその後の調査・研究成果によるものです。

平面計画と柱位置 太田家住宅平面計画
            修理工事報告所51項転載
建築当初からザシキ(12畳)、アラケ(12.5畳)、ナンド(6畳)、ダイドコロ(10畳、囲炉裏半畳含む)は、6.3尺×3.15尺の畳敷きでした。畳を敷き込むには、部屋側の柱と敷居の部屋側の面が通っている必要があります。そのため、隣り合う柱の大きさが違う場合は柱真と通り真を合わせると大きな柱は室側に出てしまいます。柱が室側に出てしまうと柱を欠込んで畳を入れることになります。それを防ぐために、大きな柱は畳のない板の間や縁側にずらして建てられますので、通り真と柱真がずれています。通り真の間隔は畳の大きさ+敷居幅となり、このような平面計画を畳割りといいます。
畳の大きさは現行尺(1尺303.03㎜)では1,909㎜×955㎜ですが、明治8年に制定されたものさしですので、それ以前に建てられた建物の実測は注意が必要です。鉄尺(1尺302.58㎜)で建てられた建物では1,906㎜×953㎜になりますので、八畳間では室内寸法が6㎜の差になります。
現在では畳は室内の寸法を測って作られますが、以前球磨の年配の畳職人の方に聞いた話では、腕の良い大工さんの現場は室内の寸法を割り付ける必要がなく、所定の大きさの畳を作ればきれいに畳を敷込めたということでした。大阪で担当した畳割り平面計画の民家は畳が72畳ありましたので、雑作工事が終わってから畳を作っていたら、竣工が遅くなってしまうのではないかと考えていましたが、この職人の方の話で納得しました。
番 付 床がある部分の番付はアラケ南西隅柱を起点に時計回りとした回り番付で、番号の前に「下」と書かれています。土間部はアラケ南西隅柱の南側の隅柱を起点に反時計回りの回り番付です。
番付を調べると建築当初の規模や後世の増築などを知る手掛かりとなります。
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