青蓮寺阿弥陀堂

建物データ

指定名称 重要文化財青蓮寺阿弥陀堂 1棟   嘉吉3年(1443)頃
桁行五間、梁間五間、寄棟造、茅葺、向拝一軒、こけら葺
  附・棟札 2枚 天文十一年十二月二八日、宝暦四年三月各1枚
指定年月日 大正2年4月14日、附 昭和32年6月18日
所在地 多良木町黒肥地
修理記録 昭和30年(屋根葺替工事)、平成7年(解体修理)、平成16年(災害復旧屋根工事)
保存修理工事報告書 平成8年3月31日

球磨川から見た青蓮寺阿弥陀堂

球磨川から見た青蓮寺阿弥陀堂

平成8年3月の青蓮寺廻りの風景です。

青蓮寺阿弥陀堂正面

青蓮寺阿弥陀堂正面

平成7年度までの保存修理工事で宝暦4年(1754)に改修された姿に復旧整備されました。

青蓮寺阿弥陀堂正側面

青蓮寺阿弥陀堂正側面

外見は向拝の瓦葺がこけら葺に復旧された以外は修理前とほぼ同じ外観です。

青蓮寺阿弥陀堂内陣の須弥壇と厨子

青蓮寺阿弥陀堂内陣の須弥壇と厨子

須弥壇の部材は前身建物の鎌倉時代のものとみられる部材と当初嘉吉3年(1443)の部材、万治元年(1658)の部材、宝暦4年(1754)が混在していました。厨子は万治元年に新設されたと考えられます。


勾欄の復原は来迎柱の痕跡から架木、平桁、地覆の形状、寺に残されていた通り栭からは親柱の直径が判りました。親柱や細部については、町内の長運寺の須弥壇を参考にしました。長運寺の須弥壇親柱の擬宝珠は親柱と一木で作り出していますが、こちらは金鍍金の八双金具や格狭間の縁金具が取り付いていましたので、製作図が入手できた奈良県の松尾寺本堂(1337)の擬宝珠金具に倣い整備されました。

青蓮寺阿弥陀堂内陣修理前の須弥壇

青蓮寺阿弥陀堂内陣修理前の須弥壇

勾欄が大正初年に取り替えられていました。

青蓮寺阿弥陀堂内陣の来迎壁と来迎柱の痕跡

青蓮寺阿弥陀堂内陣の来迎壁と来迎柱の痕跡

建立時の須弥壇は現在の高さの1/2程でした。

青蓮寺阿弥陀堂建立当初の須弥壇

青蓮寺阿弥陀堂建立当初の須弥壇

仮組みした建立当初の須弥壇。勾欄部材は通り栭が1つ寺に残されていました。

青蓮寺に残されていた通り栭

青蓮寺に残されていた栭束

親柱に取り付く通り栭でした。

青蓮寺阿弥陀堂小屋組

青蓮寺阿弥陀堂小屋組

小屋組は宝暦4年(1754)の改修時のもので二重梁形式の和小屋に変更されていました。それ以前に使用されていた部材が多く転用されています。

青蓮寺阿弥陀堂小屋組最下段梁組

青蓮寺阿弥陀堂小屋組最下段

梁は丸太を割ったもの、丸太の皮を剥いたもの、宝暦4年改修時の角材が混在しています。丸太を割った部材は側面に楔の跡がありませんので木口から割ったものと考えられます。

青蓮寺阿弥陀堂当初敷桁の痕跡

青蓮寺阿弥陀堂内陣修理前の須弥壇

写真中央と下の部材が当初敷梁です。梁の交点は上木端に釘彫りをして大きな釘で梁と梁を固定していました。

青蓮寺阿弥陀堂当初小屋組復原模型

青蓮寺阿弥陀堂当初小屋組復原模型

当初小屋組部材に残る痕跡を整理すると扠首組であったことが判りました。保存修理工事では宝暦4年の姿で組み立てますので、1/10模型を製作して部材の納まりを確認しました。木材は腐朽して再用できなくなった縁板を利用しています。

青蓮寺阿弥陀堂化粧裏板・天井板を取外した状態

青蓮寺阿弥陀堂化粧裏板・天井板を取外した状態

一番外を廻っているのは宝暦4年(1754)に取り替えられた丸桁、内陣天井格縁はそれまで柱筋に通していたものをその中央にも格縁が通されました。これら以外の部材は当初材です。

青蓮寺阿弥陀堂当初丸桁

青蓮寺阿弥陀堂当初丸桁

宝暦4年(1754)の改修工事で二重合掌に転用されていました。太鼓型断面で人吉球磨地方では厨子にみられる形状です。垂木の止釘は1回分でしたので、この丸桁廻りは嘉吉3年(1443)から311年間修理が行われなかったことが判ります。中古丸桁も転用されて残されていましたので、雨漏りにより宝暦4年以前にも軒廻り部分の修理は行われたようです。この中古丸桁は日当たりの悪い建物北側のものと推測されます。

青蓮寺阿弥陀堂当初化粧隅木

青蓮寺阿弥陀堂正側面

宝暦4年(1754)の改修工事で東面北側の桔木に転用されていました。鼻先が切除されていますが、近年規矩術の研究が進みましたので、軒廻りの復原は可能と思われます。

青蓮寺阿弥陀堂当初茅負

青蓮寺阿弥陀堂当初茅負

背面側以外の3面が削られて転用されています。

青蓮寺阿弥陀堂に使用されていた釘

青蓮寺阿弥陀堂に使用されていた釘

当初の釘と宝暦4年の釘は頂部の切頭と巻頭の形状の差がありますが、大きな違いは長さに対する太さで時代が降るほど細くなっていく点です。

建物情報

※情報の内容は重要文化財の指定説明とその後の調査・研究成果によるものです。

大工棟梁 宝暦4年(1754):奈須 市郎兵衛
平面計画 青蓮寺阿弥陀堂平面計画
保存修理工事中は実測値から各間現行尺6.54尺の等間平面の計画と考えていました。6.54尺は当初6.5尺ではないかとも考えましたが、1尺(304.9㎜)が長すぎるということで平面計画については結論を出すことができませんでした。歴史的建造物の平面寸法からのものさしの研究により、鎌倉時代から江戸時代までは1尺=302.58㎜前後とみなせる物件が多く確認されました。1尺302.58㎜のものさしは又四郎尺(永正年間1504~1521に作られたと伝えられている)と呼ばれていますが、鎌倉時代前期に建立された十輪院本堂の平面寸法はこのものさしと一致します。そのため、このものさしを又四郎尺と呼ぶのは齟齬がありますので、ここでは鉄尺(ものさしは竹製と鉄製がありますのでものさしの素材名称とします)と呼ぶことにします。
実測値は現行尺で6.53~6.54尺で、修理工事報告書では決定寸法を6.54尺としましたが、現行尺の6.53尺とし鉄尺で検討すると、規模は32.7尺(9,893㎜)で、各柱間は6.54尺となります。当初は各柱間12枝ですので、一枝寸法は0.545尺となります。
では、32.7尺をどのように決めたのでしょうか。青蓮寺阿弥陀堂は肘木の幅が0.3尺ですので、柱通り壁付方向の肘木外々が33尺となります。柱断面寸法は33尺の1/33で1尺としているようですので、33尺に関係しているとすると110等分した1小間0.3尺の109小間32.7尺を柱真々とし、1小間0.3尺を肘木幅としたみられます。垂木を32.7尺に60本配すると五間堂ですの各間12枝、一枝寸法は0.545尺となります。
保存修理工事報告書を見ると「造営尺」という表現が散見されます。この「造営尺」は主に平面寸法の報告で使われていて、実測値を従前の常識値に合わせるために物差しの長さを変えて報告されているものです。青蓮寺阿弥陀堂で各間を6.5尺に計画しているという考えは誤っていました。
軒廻り 宝暦4年の改修工事で丸桁から上の部材が取替えられ、丸桁真々を54等分する垂木割に変更されました。地垂木・飛檐垂木とも反りがあり、茅負の反りは留先で0.4尺で茅負の成の3/4になります。垂木に反りがありますので茅負の投げ勾配は4.5/100程で、茅葺のため軒先を外に出さないような設計となっています。
番 付 当初材には番付がありませんでした。
宝暦4年の番付は縁廻りと下段小屋束が正面南東隅を起点に時計回りする回り番付で、中段小屋束は外側のみ回り番付の前に「イ」が付けられていました。
当初材 中世に建立された社寺建築は長い部材が使用されています。青蓮寺阿弥陀堂は桁行・梁間とも10m弱ですが、当初は丸桁(3.5間の長さに切り縮められ転用)までは一本物であったと考えられます。裏甲は隠目違継の継手が確認されましたので、木負・茅負も2本継であったとみられます。
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