山上八幡神社本殿
建物データ
指定名称 | 山上八幡神社本殿 天正5年(1577)、神像銘 一間社流造、寄棟造、茅葺 |
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指定年月日 | 平成18年10月20日 |
所在地 | あさぎり町上東字 |
修理記録 | 江戸期 :軒廻り修理、懸魚の取替え 明治以降:軸部の補強、羽目板の取替え、筋違の取付け、天井の新設、軒廻り補修、正面側化粧裏板の取替え 昭和期 :雑作の補修、片引板戸、板扉、向拝切目長押の取替え、軒廻り修理、茅負、裏甲の取替え等 平成22年:移築保存修理工事 |
保存修理工事報告書 | 平成24年3月出版 |
山上八幡神社本殿正面
修理工事報告書によると当社は弘治3年(1557)に、上村(現あさぎり町)の地頭上村頼孝が主家に対して反乱を起こしましたが、鎮圧されて一族は滅亡しました。この時、東円寺の僧勢鑁が上村氏の味方となった皆越地頭阿部氏(皆越氏)に対してこれを諌めましたが、聞き入れられず、その恨みは勢鑁の死後怨霊となって皆越家に祟り、それを鎮めるために元亀元年(1570)、阿部貞満が皆越の地に山上八幡神社を建立しました。その後、天正5年(1577)に相良家第18代相良義陽の夢想により久木原の地に移したと言われています。この時、非業の死を遂げた植村氏の頼孝、頼堅、長蔵の鎮魂も兼ねて山上神社を移設したようです。
山上八幡神社本殿側面
平成22年の保存修理工事以前は近くの山の山腰に在りましたが、保存修理工事を機に現在地に移築されました。
旧所在地には覆屋の跡がみられませんので、当初から屋根は茅葺であったと考えられます。
山上八幡神社本殿向拝木鼻
向拝木鼻は身舎木鼻と比較すると、基本的には同じ意匠ですが頂部円弧部分の曲率が大きくなっています。
山上八幡神社本殿向拝絵様肘木
向拝絵様肘木の意匠は同町の上永里雲羽神社本殿(享禄元年1528)の中央間の向拝絵様肘木に似ています。
山上八幡神社本殿繋虹梁
繋虹梁は水平に納められ、身舎側は成の半分を身舎柱に落とし込んでいます。
山上八幡神社本殿身舎木鼻
木鼻の意匠は多良木町の久米治頼神社本殿(永禄9年1566)身舎木鼻と似ていて、同じように皿斗を載せています。
建物情報
※情報の内容は調査・研究成果によるものです。
大工棟梁 | |
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平面計画と柱断面寸法 | 『諸社改覚帳控』(延享4年1747)には「山上八幡 社人 尾形長左衛門 一 御宝殿 平八尺五寸 徒ま八尺三寸 外ニえん三尺 ・・・」の記述があります。 修理工事報告書には基準尺を現行尺としたことが書かれていますが、実測値の記載はありません。そのため図面も現行尺の柱間寸法となっています。 正面は8.5尺24枝ですので、一枝寸法は0.354166・・・尺の循環小数となります。人吉球磨地域では裏目の設計とみられる本殿がありますので、平面計画を鉄尺(1尺302.58㎜)の裏目で考察してみます。 正面は8.5尺(2,576㎜)で24枝ですので、一枝寸法は0.35416・・・尺の循環小数となります。そこで裏目に換算すると6.02裏尺になります。6.0裏尺とすると2,567㎜で―9㎜の差がでます。正面は24枝なので柱間が6.0裏尺では一枝寸法は0.25裏尺で、側面は23枝(5.75裏尺2,460㎜)とすると8.1尺(2,454㎜)との寸法差は+6㎜です。向拝の奥行は身舎の3/8(2.15625裏尺923㎜)とした推測されます。柱断面寸法は6.0裏尺の2/27で0.445裏(190㎜)尺としたと考えられます。 平面図の身舎側面柱間寸法は『諸社改覚帳控』の記載寸法は8.3尺、向拝奥行は3.0尺修理工事報告書の図面とは異なっています。この柱間寸法11.3尺を裏目でみると7.99裏尺で8.00裏尺とも考えられます。この場合正面3:側面4の寸法比となります。 |