上永里雲羽神社
建物データ
指定名称 | 上永里雲羽神社 享禄元年(1528)、『麻郡神社記』 三間社流造、寄棟造、茅葺、西向 |
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指定年月日 | |
所在地 | あさぎり町上永里 |
修理記録 | 天正13年(1585):屋根葺着替え、小修理 寛永13年(1636):屋根、小屋組、向拝 平成年8年以降:軒廻り修理 |
保存修理工事報告書 | 『中世等文化遺産保護対策調査事業報告書』(平成8年3月、熊本県教育委員会) |
上永里雲羽神社本殿正面
『麻郡神社記』によると当社は日州霧島神社と同体で、鎮座の年紀は不明です。大永6年(1526)山ノ城が没落の時に宮殿は悉く兵火に罹り焼失し、享禄元年(1528)に本殿が再興されました。天文元年(1532)に拝殿が造営され、天正13年(1585)には宮殿が修復されました。その後、慶長年中(1596~1614)に藤原長毎の祈願により拝殿が修造され、寛永13年(1636)には丸山某氏により本殿が改造されています。
『麻郡神社記』の記述をもとに現状の本殿を見ると、享禄元年に再興された当時の部材と、寛永13年に改造された時の部材が混在しているようです。天正13年の修復は建立されてから57年しか経過していませんので、災害が影響していないとすると屋根の葺替えと雨の掛かる部分の小修理と考えられます。
上永里雲羽神社本殿正面詳細
『中世等文化遺産保護対策調査事業報告書』では向拝柱は寛永13年改造時のものとされています。蟇股は生善院観音堂(寛永2年1625)のものと輪郭が似ていますのでこれも改造時のものとみられます。頭貫は木鼻の輪郭の意匠をみると改造時のもののようです。縁廻りの部材は改造時以降のものとみられます。肘木の端間側が蟇股を取付けるために斜めに切られ、巻斗を移動させて載せていますので肘木は改造時以前のものと考えられます。
上永里雲羽神社本殿正側面
身舎桁行方向の頭貫木鼻は正面側、背面側とも向拝頭貫木鼻と同時期のものと見られますので、身舎は寛永13年改造時には頭貫より上の部材と繋虹梁まで解体されているようです。
茅葺屋根は覆屋が新設されるまで直接雨を受けていましたので、降雨時には屋根はかなりの重量となっていたようで、向拝柱の傾斜を止めるために補強されています。覆屋がない町内の山上神社本殿も茅葺ですが、茅葺屋根の本殿は2棟のみで、報告書の断面図を見ると当初は板葺であったかも知れません。
上永里雲羽神社本殿側面
繋虹梁と頭貫は当初材(享禄元年1528)とみられます。
上永里雲羽神社本殿背面
茅葺屋根の棟は身舎と向拝奥行の中央付近にありますので、身舎の棟通りと1m前後ズレています。
上永里雲羽神社本殿妻飾り
妻飾りは豕扠首ですが、真束は外部が半円形となっていて虹梁上端からこぼれています。
上永里雲羽神社本殿基礎廻り
自然石の雨落葛石を四周に廻し、礎石は少し上に据えられていますので、建立当初雨落葛石天端から礎石まで外側に水勾配を付け、犬走や床下まで全面的に三和土叩きになっていたよう思われます。現在はかなり土が流され礎石がむき出しになってます。
上永里雲羽神社本殿繋虹梁
繋虹梁下端の釈杖彫は山田大王神社本殿(天文15年1546)の海老虹梁下の釈杖彫に近く、生善院観音堂(寛永2年1625)の錫杖彫の意匠とは明らかな違いがあります。
上永里雲羽神社本殿向拝内部側
補強のない中央2本の柱は頂部が外側に傾斜していますので、大斗や巻斗に破損が生じています。
上永里雲羽神社本殿当初木鼻
渦が輪郭から離れ、2回転回っていて終点は尖っています。
上永里雲羽神社本殿当初絵様肘木
渦は輪郭から離れ、1回転半回っていて終点は尖っています。
上永里雲羽神社本殿向拝絵様肘木
当初絵様肘木とかなり印象が違います。寛永13年(1636)改造時のものとみられます。
上永里雲羽神社本殿拳鼻
当初材と考えられますが、風蝕しているため形状がよく判りません。
上永里雲羽神社本殿向拝頭貫木鼻
木鼻の渦は終点が丸くなっています。木鼻上方の垂木で明らかに幅が狭い垂木が見えます。この垂木は下角に面が取られています。2つの時代の垂木が混在しているようです。
上永里雲羽神社本殿桁行方向頭貫木鼻
木鼻の渦の終点は丸くなっています。枝外垂木下端の止釘は切頭型の和釘が使われています。
上永里雲羽神社本殿向拝蟇股
蟇股は寛永13年(1636)改造時のものです。
上永里雲羽神社本殿大斗と鯖尾の納まり
鯖尾の幅より大斗の含み幅の方が広くなっていますので、鯖尾としている梁と大斗は違う時代のものとみられます。人吉球磨地域で中世に建立された本殿は鯖尾内部側は肘木となっていますが、この本殿は内部側が肘木と梁を一体としたような形の化粧梁としています。この写真でも、幅が狭く下角に面を取っている垂木が確認できます。
建物情報
※情報の内容は調査・研究成果によるものです。
平面計画と柱断面寸法 | 『中世等文化遺産保護対策調査事業報告書』の図面を見ると実測値を現行尺(1尺303.03㎜)で整理されているようです。正面規模3,243㎜(10.7尺)、中央間1,303㎜(4.3尺)、端間970㎜(3.2尺)、身舎側面各1,097㎜(3.62尺)、向拝奥行1.061㎜(3.5尺)、柱断面寸法は図面を測って換算すると203㎜前後となっています。 図面の表記寸法では正面中央間(12枝)と端間(9枝)の一枝寸法が異なりますが、その計画性が見えません。中央間を鉄尺に換算すると4.306尺で一枝寸法は0.359尺となります。実測値が判りませんが、ここでは一枝寸法を0.36尺と仮定して平面計画を推測してみます。 身舎柱断面寸法は図面を測って換算すると210㎜前後ですので0.7尺(11.5尺2/33)の計画とすると、身舎正面規模を柱外々11.5尺としたと推測されます。隅柱真々寸法は10.8尺で30等分すると1小間0.36尺(=一枝寸法)で、中央間12小間4.32尺、端間9小間3.24尺で、身舎側面二間は10小間3.60尺正面中央間との柱間寸法比6:5の設計とみられます。江戸時代以前に建立された本殿の向拝奥行は人吉球磨地域では身舎側面柱間寸法と同じにする事例は他に3棟ありますので3.60尺の設計と推測され、この場合正方形平面となります。 『諸社改覚帳控』(延享4年1747)には「雲羽社 社人 浅生靱負 一 御宝殿 平 壱間四尺八寸(→壱間=6尺、6尺+4.8尺=10.80尺) 妻 七尺弐寸 外ニ弐方えん三尺弐寸 ・・・」 の記述があります。 側面の身舎各間と向拝奥行を等間としているのは山田大王神社本殿(天文15年1546)、山本神社本殿(天正元年1573)、十島菅原神社本殿(天正17年1589)です。実測調査ができたら平面計画を再考したいと思います。 |
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