宮原観音堂

建物データ

指定名称 宮原観音堂(厨子共)   16世紀中期頃
桁行四間、梁間三間、寄棟造、茅葺、向拝一軒、こけら葺
厨子 一間厨子、妻入、入母屋造、板葺
指定年月日 昭和37年9月10日
所在地 あさぎり町岡原北
修理記録 平成7年(屋根葺替・部分修理工事)
保存修理工事報告書 平成8年3月31日

駐車場から見る宮原観音堂

駐車場から見る宮原観音堂

地元では「観音堂は竜泉寺の跡である」と伝えられています。竜泉寺は川を挟んで対岸にあった中嶋霧島神社の別当で、戦国時代末頃にはすでに廃絶していたと考えられています。龍泉寺が廃絶してからは村人の手によって護られてきました。

宮原観音堂正面

宮原観音堂正面

保存修理工事で小屋組が当初復原され、セメント瓦葺から茅葺に変更されました。また、縁廻りが復旧整備されましたので、建物の印象が修理前とかなり変わりました。

宮原観音堂正側面

宮原観音堂正側面

人吉球磨地域の仏堂では江戸時代に入ってから向拝が設けられるようになりました。

宮原観音堂側面

宮原観音堂側面

正面側一間が外陣、三間が内陣で、奥行きは四間になっています。

宮原観音堂須弥壇と厨子

宮原観音堂須弥壇と厨子

須弥壇は、框の裏側の墨書によって、享保八年(1722)に造り直されています。来迎柱とその奥の角柱には、現状の須弥壇上面より21㎜下に成91㎜の長押状の部材が、床上には地長押状の部材が取り付いていた風化差と釘穴があります。旧は、腰長押・地長押が前方に延びて、須弥壇を形成していたのかもしれません。あるいは、来迎柱から突出した須弥壇はなく、来迎柱間に腰長押・地長押が通っていたのかもしれません。須弥壇を解体して調査すれば詳しいことが判明するでしょう。現在は来迎柱間に格子戸をけんどんで建てていますが、敷居に小脇壁の板溝と軸摺穴があります。旧は、観音開きの建具だったようで、ある時期に建具を改変しています。厨子は、旧建具の間口では中に入れることができないので、厨子は後世に他所から移入されたもので、その際に間口を広げるため建具を改変したのかもしれません。来迎柱後方の張り出しは、東西方向の頭貫に屋根板を打ち付けており、南北方向の頭貫木鼻の絵様が本体の木鼻の絵様と異なるなど、不自然な点があり、厨子は観音堂より年代が新しい可能性があります。(写真提供: 有限会社島崎工務店)

宮原観音堂の復原された建立当初の小屋組

宮原観音堂復原された建立当初の小屋組

後に改修された小屋組に転用されていた当初材の痕跡を整理して、小屋組が復原されました。(写真提供: 有限会社島崎工務店)

宮原観音堂軒廻り

宮原観音堂軒廻り

宮原観音堂は建立当初の軒廻り部材がほぼ残っていて、今後の軒廻りの研究において大変重要な資料となります。

宮原観音堂の復原された結界格子戸

宮原観音堂の復原された結界格子戸

内・外陣境の格子戸の復原に際して得られた資料は下記のとおりです。
・観音堂床下に堆積した塵埃の中から、清掃中に建具の部材が発見されました。格子戸の格子断片で、見付45.5㎜、見込30.3㎜、324㎜の長さに格子三コマ分の欠き込みがありました。風化したスギ材で、木肌が当堂の雑作材に似ており、別建物の部材とは考えにくいものです。格子戸を廃棄した際、偶然床下に落ちたものと考えられます。当初材との確証はありませんが、かなり風化しているので、近年の建具ではありません。両側面の風化程度が同じなので、たての格子と推定されました。
・格子一コマ分は108㎜で、この寸法で結界内法を割ると、縦17コマ、横15コマで割り付けられました。結界柱間敷・鴨居(当初材と思われますが、中古材の可能性もあります。解体していませんので正確には判りません)の溝は、中央間と南間が一本溝で幅33㎜、北間は二本溝で、外側の広い溝が幅33㎜、内側の狭い溝が幅21㎜でした。広い溝は、右の格子断片の見込寸法と一致します。狭い溝は、くぐり戸のものと判断しました。格子断片は、棟札・奉納札と共に、木箱に納めて須弥壇下に格納されています。

宮原観音堂内陣天井

青蓮寺阿弥陀堂小屋組

中央二間は竿縁天井、その廻りは化粧小屋裏としています。

宮原観音堂来迎柱木鼻

宮原観音堂来迎柱木鼻

地方色のない端正な形の禅宗様木鼻です。

宮原観音堂斗栱

宮原観音堂斗栱

肘木は禅宗様の形状です。六枝掛になっているかは修理工事報告書に記載がありませんでした。

建物情報

※情報の内容は保存修理工事報告書とその後の調査・研究成果によるものです。

平面計画 宮原観音堂平面計画
青蓮寺阿弥陀堂、八勝寺阿弥陀堂と同じく等間の建築で一間6.5尺強の柱間寸法としています。この三棟は同じような平面計画と考えていましたが、各柱間の実測値を鉄尺に換算して分析すると三等とも異なった平面計画と考えられます。
宮原観音堂は現行尺で実測した寸法が修理工事報告書に記載されていますので、1尺303.03㎜としてメートルに換算して、1尺302.58㎜の鉄尺で寸法を整理しました。木鼻の実測値は正面三間19.58尺(5,924㎜)、背面側19.585尺(5,926㎜)、北側面四間26.17尺(7,918㎜)、南面26.08尺(7,891㎜)、北側面背面二間真墨実測値13.074尺(3,9556㎜)です。一間分の柱間寸法は6.52尺~6.542尺になります。柱断面寸法は詳細図を測ると295㎜(0.97尺)前後でした。
南側面より四間分で6㎜長くなりますが、一間の柱間寸法を6.525尺とします。また、平面規模を側面四間分として分析します。まず、大まかな規模(隅柱外々寸法)を27尺として120等分すると1小間は0.225尺になります。柱はこの寸法のグリッド上に配置し、各柱間は29小間で6.525尺になります。側面四間は116小間26.1尺、正面三間は87小間19.575尺となります。各柱間は12枝ですので、一枝寸法は0.54375尺となります。
軒廻り 修理工事報告書には規矩図がありませんので、軒廻り部材の解説を記載します。
1 側 桁
当初材の材種はスギ。継手はなく、各面とも一木で造る。仕口は、隅が相欠で、正・背面が上木、側面が下木になる。成は前面が136.4㎜~151.5㎜、後面が151.5㎜前後、幅98.5㎜寸、木返りの形状は場所によって異なる。面戸彫りは、垂木一コマ分ずつ彫っており(面戸板は縦使い)、桁全長を彫り抜いていない。下端に琵琶板の板溝、こちらは、隅相欠き仕口~仕口まで全長を彫り抜く。当堂の茅負は、強い心反り(側面は中央一間が水平)なので、これに対応する桁の口脇高さの調整が必要なはずである(軸部・組物には隅延びがない)。しかし、桁の成には意図的な増しがなく、木返りで調整している。脇間は木返りがほとんどなく、矩形断面だが、中央間は、桁幅全体に木返りをとる。木返りの形状は、柱真を挟んで急激に変えており、軒反りを写したなだらかな線ではない。加工程度から、組立中に現場合わせではつったと思われる。
2 化粧垂木
当初材の材種はスギ。成84.8㎜、幅69.6寸を施工上の決定値としたが、±3㎜以上のばらつきがある。先端に30.3㎜前後の反りがあるが、成の増しはほとんどない。反り元は、木口から75.76㎜程入った位置と判断した。いずれも、部材毎のばらつきが非常に大きい(±5%以上)。配付垂木の尻は、枘を造り出すが、枘の形状・寸法とも差異が著しい。垂木先端の反り上がり寸法の違いは、軒反りに対応して垂木先端の高さを変化させたものかとも考えたが、垂木位置と反りの大小には規則性がないので、単なる施工むらと考えられる。
3 茅 負
当初材の材種はスギ。側面は二丁継ぎ、正・背面は中央部が新材に取り替えられていたので不明であるが二丁継ぎと推定される。継手は尻挟み。成142.2㎜、幅84.8㎜、隅部分の成の増しはなく、眉欠もない。断面はL形で、後面上端から成106㎜寸、幅21.2㎜前後を欠き込んで、釘彫とする。隅柱から一間半入った位置が反り元で、正・背面は心反りであったと考えられる。隅木口脇の反り上がり寸法は平の成二本分=284.8㎜と大きい。軒は著しい振れ軒となり、茅負の隅付近は組立時に外下角をはつっているようであるが、蕪雑な仕事である。軒の捻れに対応する断面の調整を、意図的に施した形跡は確認できない。
4 化粧隅木
  当初材の材種はスギ。幅三・七寸で先端のこきはなし、成一・四尺前後、矩形断面。側桁及び身舎桁の、隅組手の落掛り仕口に据えて大釘及び鑓止め。下端には仕口がなく、桁との間に太柄等もない。配付垂木の仕口は、一般的な下方傾ぎ横柄差であるが、柄穴の勾配は不正確かつ不揃いで、矩計の穴を彫っただけの箇所もある。先端は和様隅木の形に作るが、雨蓋を付ける。中古材の材種はマツ。垂木柄穴・化粧裏板決り等の仕口はなく、垂木はすべて突付け釘打ち。雨蓋はない。垂下した軒に合わせて、反りを小さく造る。 
番 付 修理工事での解体範囲が少なく番付の報告はありませんでした。
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