荒田大王神社
建物データ
指定名称 | 荒田大王神社 本 殿:三間社流造、栩葺、南向 明治前期 拝 殿:桁行三間、梁間四間、入母屋造、桟瓦葺、妻入 18世紀中葉 |
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指定年月日 | |
所在地 | 錦町木上字荒田 |
修理記録 | |
保存修理工事報告書 | 未出版 |
荒田大王神社社殿
当社は鎌倉時代初期にこの地域を治めていた岩城ノ城主平川右衛門三郎義高が、人吉市城主の相良長頼(人吉相良初代)と戦って敗れ、その際に戦死した義高の霊を鎮めるために、藤原頼親(人吉相良2代)の祈願により草創あるいは藤原頼俊(人吉相良3代)の代に草創されたと曰れています。その後、応永(1394~1427)年中に再興され、永禄10年(1567)に藤原義陽(人吉相良18代)により造替されました。これ以後の史料がありませんが、現在残っている建物は人吉球磨地域の建築史的に見ると、拝殿は江戸時代後期、本殿は明治元年(1868)から20年(1887)の間に建てられたと考えられます。
荒田大王神社拝殿正面
建立当初屋根は茅葺であったとみられ、他の拝殿に比べ腕木を太くて長くして軒の出を深くしていたようです。
荒田大王神社拝殿側面
拝殿正面の間仕切が一間奥の場合はその前を吹き放しとする例が多いのですが、正面一間も側面を腰板としてその上を板戸で塞ぐ形式とした唯つの拝殿です。詳細な調査を行いたいですね。
荒田大王神社拝殿軒廻り
写真右側が本殿側ですが、腕木の鼻先が切断されています。屋根を桟瓦葺に改修する際に、本殿との取合いを調整したものとみられます。
荒田大王神社本殿正面
本殿は和釘が使用しているのですが、垂木が棒垂木となっていますので、明治に入り明治20年(1887)前後までに建てられたと考えられます。蟇股は上端の幅より中央の幅が縮められた形になっています。
荒田大王神社本殿側面
懸魚は蔐懸魚で江戸時代の人吉球磨地域性が見られません。
荒田大王神社本殿背側面
養生用の屋根を本殿の屋根に載せています。