土屋観音堂
建物データ
指定名称 | 土屋観音堂 明治20年(1887)以降 桁行三間、梁間三間、入母屋造、桟瓦葺、平入、正面向拝一間、桟瓦葺、東向 |
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指定年月日 | |
所在地 | 錦町一武土屋 |
修理記録 | 平成16年に屋根修理 |
保存修理工事報告書 | 未出版 |
土屋観音堂正面
文安5年(1448)に上相良の頼観、頼仙兄弟が人吉城を占領し、人吉城第10第相良堯頼は大隅日菱刈に逃げます。この時、少年領主堯頼に人吉の永国寺大虫和尚が伴します。同年夏、堯頼は菱刈で急死したため、大虫和尚は間もなく帰国し、一武東方樅木園に草庵を設けます。その後、土屋小槙山の麓に一院を建て、一乗寺と称しました。一乗寺は明治維新後に廃寺となりましたが、その後に建てられてのが現在の観音堂とみられます。
土屋観音堂正側面
写真右側の下屋はお彼岸の接待のための水屋と思われます。推測ですが、この仏堂は明治の廃仏毀釈を免れた仏像を戻すために、地元の方々により建てられたのかも知れません。
土屋観音堂側面
建立当初の屋根形式がどうであったか興味深仏堂です。
土屋観音堂背側面
飛貫位置で拳鼻が飛び出して。
土屋観音堂向拝
地垂木、飛檐垂木、向拝垂木はすべて棒垂木となっていますので明治以降のものだということが判ります。また、洋釘しか使用されていませんので、明治20年以降に建てられたとみられます。現在の形のような洋釘は、全国的に明治20年前後に使用されるようになりました。
土屋観音堂内部天井
内部の天井は格天井としていますが、梁を化粧として見せています。