井沢熊野座神社

建物データ

指定名称 井沢権現社中央殿・右脇殿・左脇殿・右摂社・左摂社 5棟
中央殿   天文11年(1542)、嗣誠独集覧、麻郡神社私考
一間社隅木入春日造、板葺
右脇殿   永禄5年(1562)、懸仏墨書、磨郡神社私考
一間社隅木入春日造、板葺
左脇殿   永禄5年(1562)、懸仏墨書、磨郡神社私考
一間社隅木入春日造、板葺
右摂社   17世紀前半、嗣誠独集覧
一間社流造、横板葺
左摂社   17世紀前半、嗣誠独集覧
一間社流造、横板葺
指定年月日 平成10年1月28日
所在地 相良村柳瀬
修理記録 昭和18年移築、昭和61年12月元の場所に再移築
平成30年保存修理
保存修理工事報告書 『中世等文化遺産保護対策事業調査報告書』(平成8年3月、熊本県教育委員会)

井沢熊野座神社社殿

井沢熊野座神社社殿

当社は「井沢権現」とも称し、県指定の名称ではこの名称となっています。『麻郡神社記』には紀州熊野神社と同体で、人吉球磨地域の熊野座神社三社の内、本宮に準ずるとあります。草創は不詳で、南北朝時代に再興され、さらに天文11年(1542)に藤原長唯により社殿が再興されました。この時の別当は本泉寺十八代法印慶闇と記録されています。当社は昭和18年太平洋戦争時代に社殿一体が海軍航空隊の軍用地として接収され球磨川縁に移転しましたが、道路より下でもありはやくより遷宮の計画がなされ、昭和61年12月井沢地区有志の懇願により旧社殿地に遷宮されました。覆屋内部の本殿と摂社は、2回移築されたことになります。
『麻郡神社記』には永禄5年(1562)藤原頼房により御神体の鏡三面を奉納し、裏面に自筆の諱と判があると書かれています。
社殿は東面して建てられ、写真右が拝殿、左が覆屋となっています。

井沢熊野座神社中央殿

井沢熊野座神社中央殿

天文11年(1542)の建立で、人吉球磨地域では当社以外に例のない隅木入春日造で、正面に蔀戸を構えるのも当本殿のみです。

井沢熊野座神社右脇殿

井沢熊野座神社右脇殿

中央殿と同じ建築様式ですが規模が小さくなっています。熊本県指定では中央殿と同じ天文11年(1542)となっていますが、「中世等文化遺産保護対策調査事業報告書」では、木鼻などの絵様の様式から御神体の鏡の奉納の年で懸仏の銘により永禄5年(1562)の建立と判断されています。

井沢熊野座神社左脇殿

井沢熊野座神社左脇殿

右脇殿と同時代、同規模のものとみられます。

井沢熊野座神社右摂社

井沢熊野座神社右摂社

簡略化されたものなので建立年代を判断する材料が少ないのですが、大きく湾曲した垂木は江戸時代の特徴を持っています。中世等文化遺産保護対策調査事業では未調査ですので今後の調査が待たれます。

井沢熊野座神社左摂社

井沢熊野座神社左摂社

向拝部分が省略されています、こちらも江戸時代の特徴を持っています。身舎の規模は右摂社より大きくされています。

井沢熊野座神社中央殿蟇股

井沢熊野座神社中央殿蟇股

蟇股の状態を見ると当初から付いていたものか詳細に調査する必要があります。

井沢熊野座神社左脇殿蟇股

井沢熊野座神社左脇殿蟇股

蟇股上の斗がなく、取付けるスペースもないように見えます。右脇殿は斗がありますが蟇股頂部を見るとのう少し大きめの斗であったことが判ります。人吉球磨地域では、他所から蟇股や鰐口を持ってきて取付けている例がありますので今後の調査が待たれます。

井沢熊野座神社中央殿向拝木鼻

井沢熊野座神社中央殿向拝木鼻

人吉球磨地域の木鼻の形ですが楕円で囲った部分の曲線の構成が同時代のものと異なっています。

井沢熊野座神社左脇殿向拝木鼻

井沢熊野座神社左脇殿向拝木鼻

木鼻の曲線の構成はこの時代の一般的なものです。

井沢熊野座神社左脇殿向拝内部

井沢熊野座神社左摂社

向拝内部から蟇股を見ると正面から見るためだけのもので、元々は壁板に取付けられていたと考えられます。

井沢熊野座神社本殿拳鼻1

井沢熊野座神社本殿拳鼻1

輪郭の下部は中央殿向拝木鼻と同じ特徴があります。

井沢熊野座神社本殿拳鼻2

井沢熊野座神社本殿拳鼻2

輪郭の下部は左右脇殿向拝木鼻と同じ特徴があります。こちらの形状が同時代のものと同じ形状です。拳鼻が上下逆に取り付いていますが、太平洋戦争中に関わらず社殿を保存するために移された時の困難さを感じられます。この拳鼻は平成30年の保存修理で本来の向きに取り付け直されました。

建物情報

※情報の内容は後の調査・研究成果によるものです。

大工棟梁 不明
本殿平面寸法と柱断面寸法 井沢熊野座神社本殿平面計画
平成30年保存修理の際に設計監理を行われた株式会社文化財保存計画協会様より真墨実測寸法の提供していただきましたので平面計画を再考しました。
中央殿梁間寸法は台輪・茅負・向拝桁の真墨実測値がそれぞれ1,209㎜・1,208㎜、1,206㎜、1,203㎜で6㎜の差があります。計画寸法は4尺とみられ、鉄尺では1,210㎜です。桁行寸法は向かって左側の身舎桁真墨実測値が1,333㎜で計画寸法を4.4尺とすると鉄尺では1,331㎜です。身舎柱φ136㎜、向拝柱124㎜角で桁行寸法は梁間寸法に向拝柱の断面寸法(梁間寸法/10=0.4尺計画か)を足したと考えられます。
左殿梁間寸法は台輪の真墨実測値が986㎜・990㎜、正面木負真墨実測値が992.5㎜、向拝桁で993㎜で7㎜の差があります。桁行寸法は向かって右側の身舎桁18枝分の真墨実測値が1,439㎜で身舎柱真々は14枝ですので1,119㎜前後と考えられます。身舎柱φ136㎜、向拝柱121㎜角の計画のようです
規模が同じとみられる右殿の梁間寸法は身舎桁・向拝桁の真墨実測値が現行尺3.25尺で985㎜とみられます。桁行方向は真墨実測値はありませんでした。
梁間計画寸法を最小値とすると3.25尺(983㎜)で、桁行計画寸法は梁間計画寸法に身舎柱断面寸法0.45尺を足した3.7尺(1,120㎜)と考えられます。
左殿と右殿は中央殿より後に建立されてますので、平面寸法の関連をみると左殿と右殿の梁間寸法は中央殿梁間寸法4尺を16等分(1小間0.25尺)した13小間(3.25尺)としているようです。
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