山田大王神社
建物データ
指定名称 | 重要文化財山田大王神社 2棟 本殿 天文15年(1546)、麻郡神社私考 三間社流造、板葺 附・祈祷札 1枚 永禄五年十二月 覆屋 1棟 桁行6.3m、梁間6.1m、一重切妻造、妻入、茅葺、銘札1枚(安永十年) 拝殿及び神供所 宝暦11年(1761)、隅木墨書・銘札 拝 殿 桁行9.7m、梁間4.9m、一重、寄棟造、妻入、茅葺 神供所 桁行5.2m、梁間4.9m、一重、北面寄棟造、南面拝殿に接続、茅葺 附・銘札 1枚 宝暦十一年八月二二日 附・由緒札 1枚 寛延四年十一月 石造明神鳥居 1基 延享二年、銘札1枚(延享二年十月)付 |
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指定年月日 | 平成2年9月11日 |
所在地 | 山江村大字山田 |
修理記録 | 平成9年(解体修理・構造補強工事) |
保存修理工事報告書 | 平成9年10月30日出版 |
山田大王神社社殿
山田大王神社は、山田村地頭平河藤高を祀る神社で正安年中(1299~1302)に山田城主永留長滋によって創建されたと伝えられています。
平河一族をまつる大王神社は、このほかに父親の義高を祀る木上の荒田大王神社、長男の盛高を配る深田の深田大王神社、三男の三郎師高を木上の平川大王神社、四男の横瀬四郎高実を祀る多良木町黒肥地の横瀬大王神社の五社があります。このように平河一族が祀られたのは、相良長瀬が平河義高の助勢を得て、城代の矢瀬主馬助を謀殺し入城を果たしながら、晩年に義高を攻め滅ぼしたので、後年、その崇りを恐れ、民心の安定を図るためといわれています。
保存修理工事で本殿、拝殿及び神供所、覆屋はそれぞれの建立当初の姿に復旧、整備されました。社殿はほぼ東面して建てられています。
山田大王神社本殿・覆屋
本殿は天文15年(1546)に人吉城主十七代相良晴広と球磨奉行の東長兄により社壇の修造が行われました。この建立の時は覆屋・基壇および拝殿はまだ存在せず、緩傾斜地を削平し、造成して建てられたと考えられています。
山田大王神社覆屋
現在の覆屋は安永10年(1781)の建立です。
山田大王神社拝殿
本殿の建立時から三十四年後の天正8年(1580)になって初めて前身拝殿が球磨奉行深水長智・長豊親子により建てられました。このとき正面の拝殿地を大きく切り下げて拝殿を建て、同時に本殿の三方の地盤も断ち切って右横基壇を築き、覆屋を建てたと考えられます。
現在の拝殿は宝暦11年(1761)に現拝殿・神供所が再建されました。
山田大王神社神供所
神供所は「神饌所兼社務所」と称されていますので、神職が神供所を社務所として使用していたかも知れません。
山田大王神社鳥居
鳥居は石造明神鳥居で延享2年(1745)の造立です。
建物情報
※情報の内容は保存修理工事報告書、重要文化財の指定説明とその後の調査・研究成果によるものです。
大工棟梁 | 拝殿及び神供所:稲富 覚左衛門 |
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本殿平面寸法と柱断面寸法 | 保存修理工事報告書には本殿平面寸法の実測値が記載されていませんので、保存図の寸法で平面寸法を検討します。1尺は302.58㎜(303.03㎜は明治8年に政府が定めた長さです)とします。正面側の規模は3,849㎜、側面は3,591㎜となっています。正面は尺の表目に換算すると12.72尺、裏目(表目の√2倍の長さ)8.995尺で2~3㎜長いと9尺になります。保存図の寸法を見ると現行尺で中央間4.8尺(一枝0.4尺×12)、端間3.95尺(一枝3.95尺×10)と考えられたようです。 正面中央間は1,455㎜ですので尺の表目では4.801尺、裏目は3.40尺で、規模が裏目9尺では両端間は裏目2.8尺になります。 側面は尺の表目で11.87尺、裏目では8.39尺です。保存図の寸法3,591㎜は庇と身舎二間を現行尺で3.95尺とし、3倍して11.85尺とされています。側面も3㎜程長いと裏目8.4尺で各間2.8尺になります。 身舎柱は182㎜で尺の表目で0.60149尺、裏目では0.42532尺です。この寸法は裏目9尺を21で割った長さ0.42857尺に非常に近い数値です。また、正面中央間と端間の差が裏目0.6尺でこの長さの5/7が0.42857尺となります。中央間と端間の差は身舎柱断面寸法の1.4倍(7/5)で、平面計画と柱断面寸法との関係が理解できます。庇柱の断面寸法は身舎柱断面寸法の5/6としています。 平面寸法を裏目とするとすべての柱間が寸(尺/10)の単位となり裏目で設計されたとみなせます。 |