長福寺阿弥陀堂

建物データ

指定名称 長福寺阿弥陀堂        天文7年(1538)、伝墨書
桁行三間、梁間二間(元三間)、一重、切妻造、桟瓦葺
厨子 一間厨子、入母屋造、妻入、板葺 天文7年(1538)    
指定年月日 平成4年8月12日
所在地 人吉市下原田町
修理記録 昭和26年にかなり大規模な改修が行われましたが、それ以前にも大きな修理が行われているようです。
平成8年以降に修理が行われ、小屋組や床組材の取替え、大半の柱の根継、屋根の葺替えが行われた。
保存修理工事報告書 未出版

長福寺阿弥陀堂修理前正面

長福寺阿弥陀堂修理前正面

当寺は室町時代の応永8年(1401)に原田地頭の豊永家の菩提寺として創建された禅宗寺院です。永正17年(1520)、加茂明神と石室寺とが境界線をめぐり争い、両方併せて約30人の死者が出るという事件が起こりましたが、この時に石室寺住職の兄も亡くなったため、その亡きがらを葬った寺でもあります。その後、江戸時代以降は住職も置かなくなり、堂のみが存続していたようです。昭和26年(1951)年頃に、上野町内で阿弥陀堂が修復されました。
昭和26年の改修工事に携わった人の話によると、束に天文7年(1538)の墨書が残されていたということです。

長福寺阿弥陀堂修理前正側面

長福寺阿弥陀堂修理前正側面

後世の改修工事で背面側一間が撤去されています。

長福寺阿弥陀堂内部木鼻

長福寺阿弥陀堂内部木鼻

宮原観音堂の木鼻と似ていますが、渦から続く円弧部分の曲率が少ないようで、人吉市球磨地域の特徴である円弧部分が外側に出ているように見えます。

長福寺阿弥陀堂内部内虹梁

長福寺阿弥陀堂内部内虹梁

内虹梁は人吉球磨地域の仏堂ではここにしか残っていません。上端に鯖尻、側面下に眉欠き、下端に釈杖彫を施し、袖切は直線とし、弓眉も付けているようです。

長福寺阿弥陀堂修理後正側面

大信寺地蔵堂舟肘木

建物としては健全な状態となりましたが、かなり古材が取替えられています。

長福寺阿弥陀堂修理後床組

長福寺阿弥陀堂修理後床組

修理前も床組材は古い部材がなかったようです。復原の考察は根継されていない柱が残っているかどうかにかかっています。

長福寺阿弥陀堂修理後来迎柱

長福寺阿弥陀堂修理後来迎柱

写真中央の2本の柱は来迎柱で、背面側一間が撤去されています。正側面が南ですので、日当たりの悪い北面の屋根が腐朽して雨漏りして、木部が腐ってしまったと考えられます。木部の水分が抜けないと白蟻の温床になります。写真左側の柱は木鼻の廻りが蟻害を受けていることが判ります。

長福寺阿弥陀堂修理後内部梁組

長福寺阿弥陀堂修理後内部梁組

一見して当初材とみられる部材以外は全て取替えられています。

長福寺阿弥陀堂厨子

大長福寺阿弥陀堂厨子

厨子は裏尺で設計されていると考えられます。

建物情報

※情報の内容は調査・研究成果によるものです。

平面計画と柱断面寸法 長福寺阿弥陀堂平面計画
長福寺阿弥陀堂は人吉球磨地域の室町時代の建立の仏堂としては、唯一各柱間が等間ではない事例です。背面一間がありませんが、正方形平面で側面も正面側と同じ柱間であったと推測されます。『中世等文化遺産保護対策事業調査報告書』(平成8年3月、熊本県教育委員会)の実測図は現行尺(1尺303.03㎜)で柱間寸法が整理されているようです。
正面中央間は6.8尺、端間6尺で、側面は正面から6尺、6.8尺となっています。側柱断面寸法は0.825尺、来迎柱断面寸法は0.91尺です。
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